脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

やっぱり「思い出補正」は切り離せないんだよ。

私は自分自身を客観的に見れないんです。
あなたと一緒です。

 

思い出補正」なんてネットスラングがある。

昔楽しんでいたモノが思い出と共に美化されて、
本質的な価値とは別に『昔の方が良かったなぁ』と感じてしまう事だ。

”補正”という言葉からして少し後ろ向きなニュアンスで捉えられがちであり、
まーぶっちゃけ「思い出が余計な事してる」的な言葉として使われがちだ。


でも、思い出補正ってコンテンツを楽しむ上でとーっても重要だ。

良くラジオなんかで曲のリクエストとかがあると
「私が高校生の時の体育祭の応援で使った曲で~」とか
「この曲を聴くと兄がよく車で流していたのを~」とか前置きがある。

一人のリスナーとしては
「んなん言われても俺はお前じゃねーし知らねーし」なんて
やる気の無いラノベの主人公的ツッコミを脳内で入れる事もあるだろう。
そりゃ俺はその人じゃないし別にそれが好きじゃないのは当然だ。

でもリクエストした人にはそれが思い出とセットで焼きついているので、
思い出補正が絡んでくる方がむしろ当然の事であり、
逆に思い出補正ナシでは聴く事の出来ない曲になっているのだ。


そりゃそうだ。当たり前すぎる話だが、
その人にとってはそこに価値が生まれているのだ。


俺自身も未だに
「あ~、この曲あの時に聴いてたんだよなぁ~」と
思い出と一緒に色濃く残っている曲が多数あるし、
それは今後もずっとそのままで生きていく事になる。

でもそれがその人の中で価値を高める要因になっているのであれば、
とても素敵な事なのだ。むしろ思い出補正を大切にした方がいい。

だからこそ
思い出補正って人間にとってとても大切な要素なわけだ。


そんなんじゃ物事を正当に評価出来ない!とも言えちゃうが、
そう、それでいいんだ。
正当な評価なんて出来なくていいんだよ。

だってその人にとって深く根付いているモノ程、
思い出補正の除外なんて不可能なんだから。
だから思い切ってぶんぶんに思い出補正に振り回されてしまえ。


それでも出来るだけ補正の無い評価という話ならば、
それは評論家の方々に任せちゃいましょう。

自分の思い出補正に囚われずにより公平に客観的に評価を下せる方々、
「自分自身を客観的に見ることは出来るんです。あなたと違うんです
なんて言う人も以前いたしね。そういう人々に委ねればいいのでは?

まぁ結局評論家の評価と言っても真の正当性なんてないわけだしさ、
この世のあらゆるコンテンツの評価は補正で成り立っているとも言える?

そんなこんなで、
当方はあくまで「思い出補正アリ」で今後もレビューして参ります。
 

4904292243 ファミコンの思い出
深田 洋介 大図 まこと
ナナロク社 2012-05-29

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