脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

大人になる程、想像力を失っていく気がする。


想像力を回顧する。


子供の想像力ってのはとにかく凄い。見習いたいくらいである。
というかもう恐ろしい。俺はもうね、最近娘が怖いよ。

これは別に俺の娘が特段凄いって話ではない。

子供ってのは皆常に大人の想像の斜め上を行く行動に出るものだ。
「こうやって使って遊んでね」みたいな意図をもって生まれた玩具で
自己流の遊び方を平気で開発する。余計な先入観が無い。
「これが答えだ!」みたいに自信たっぷりに自分なりの遊びを見つける。

そんな光景に世の親はみなこぞって「子供って純粋ねー」とか
まるで他人事のようにのたまうが、
俺はもう恐ろしいというか悲しくなってくるよ。

俺はいつからこんな想像が出来なくなってしまったんだろうか、と。


上記の玩具を製作者の意図に反して使用する例で言えば、
それはおそらく学校のテスト的にはアウトだろう。
学校は意図した通りに回答する事が良しとされる世界だ。

だが俺らは大人達きっと
そうやって学校に求められる答えばかりを選んできたからこそ
想像力を失っていったのではないかと推察されるのだ。

だってきっと俺にだって今の娘と同じように、
色んな事に縛られずに遊んでいた時期があった筈なんだ。
それなのに俺は何故今こんなにがんじがらめの日々を過ごしているんだ。
ああ、なんて悲しいんだ、どうしてこうなった。

というわけで、今日はそんな悩める俺の若かりし頃を振りかえる、
ちょっぴりセンチでハートフルな日記を書いちゃうぞ♪みたいな回顧録だ。

ハイ、今の時点で「もう無理」と思った人はどうぞ退場して下さい。
俺の昔話とか興味ない人は多分貴重な時間を無駄にする事になります。
これから先、気分悪くなって吐いても知らないからねっ。

型破りのスケッチを見た。


俺は小さい頃、絵や作文等の創作が得意だったんです。

今でもたまに変なデザインイラストを書いたり、
会社のチラシや保育園のポスターなどを手伝ったりしてる。
こんなクソみたいな文章だけどブログを書くのも結構楽しい。

あと良く車の中とかでも面白いデザインをボーっと考えたりする。
その様子はまるで恋する乙女のようである。
そして事故りそうになる。危ない。自動運転はよ来い。


そんな俺にとって図画工作は得意教科だったんだけど、
ただ嫌な時があった。それは「スケッチ・写生」である。
ただそこにある風景を見た通りに書くという事。
これが俺にとってはつまらなかったのだ。

「写すだけ?は?」みたいな。
自由に描ける想像画みたいなのは大好きだったんだけど、
スケッチ大会とか苦痛だった。自分が好きなように描けないもん。

でもね、自慢になりますけど入賞するんですよ俺の絵。
絵が得意ですもん。俺が写生が嫌いだろうが他の人より上手いからね。
賞状もいっぱい貰ったし校内でも俺が絵が上手い事は結構知られていた。


でもやっぱり写生は面白くなかった。もっとこう自由が欲しかったんよ。
自由を渇望するロックバンドみたいだろ?
小学生の時分はロックだったんだよ俺も。今はロクでもないけど。

そしてそんな俺が同級生のスケッチで衝撃を受けた事があった。

小学生も高学年だったか、学年全員のスケッチが並べられていて
入賞したスケッチにはなんかリボンとかついたりしてたんだけど、
なんのリボンもついてない同級生の一枚のスケッチがあった。

画用紙一枚いっぱいっぱいに
地元の駅にある駅名の看板がズームアップで描かれていただけだった。
白い背景にひらがなで駅名が書いてあるだけの看板のスケッチだ。

俺はね、子供ながらにこれを見て「やられた」と思った。
多分先生とかからは「手を抜きやがった」とか評価されたのだろうが、
俺にとってそれはあまりに新鮮でスケッチの概念を覆してくれたのだ。


スケッチと言えば風景を描くのが当たり前だ。
だから皆いい景色の場所を選ぶし、広がりや奥行きを感じられる絵を描く。
そして評価する先生方も当然のようにそれを良しとする。
だが駅の看板のスケッチはそんなセオリーを完全に無視していた。

そしてその絵も良く見るとまたとても緻密にスケッチしてある。
単純な白に黒だけではない、汚れや少し黄色い部分なども
丁寧に描かれてあってリアリティがあった。
手を抜いただなんてとんでもない。とても真面目にスケッチされていた。

俺には入賞した自分の作品よりもその同級生の絵の方が
とても印象的でカッコ良く見えた。発想力では完全に俺の負けだ。
俺はいつの間にか先生たちに言われるがままの絵を描く事に慣れ、
惰性でスケッチをしていたのだ。あの時の感覚は今でも覚えている。


それから俺はちょっとだけ変わった。
嫌だった写生も少し視点を変える事で少し楽しくなった。
入賞回数は減っていったような記憶があるがそれでも良かったと思う。

感想を捨てた読書感想文。


そして読書感想文である。

これも良く俺は入賞していたが、正直つまらない事が多かった。
その多くは課題図書のせいだ。課題図書の中から題材を選んで、
審査員の先生たちが求めているお手本のような感想を書く。
入賞はするだろうけど、果たしてそれは俺が書きたかった事なのだろうか。

それでも学年が上がると割と自由に感想文が書けるようになった。
それで少しは書きやすくなったけどそれでもまだ感想文は好きではなった。
なんかこうまだ書かされている感じが強かったし、自分らしくなかった。

徐々に俺は何か別の新しい事を求め始めていた。
なんてったって当時の俺はロックだったからね。
小学生、中学生の多感な時期に俺は妙な自己顕示欲が高まっていた。


そしてある時、俺はさくらももこさんのエッセイを読書感想文に選んだ。
当時さくらももこのエッセイが流行っていてそれがあまりに面白くて
俺も小遣いを使って買ってはずっと読んでいた。

もものかんづめ (集英社文庫)
もものかんづめ (集英社文庫) 

そして何故さくらももこの文章がこんなにも面白いのか分析したい、
そう思ってその文章力についての感想文を書いて提出した。
内容ではなく文の書き方に対する感想文だ。最早感想文ではない。

当然、入賞は出来なかった。
しかし担任の先生が国語の先生だったんだが、
その先生から個別に褒めて貰ったんだ。「感想文面白かったよ!」と。
当時それがとても嬉しくて嬉しくて、他の入賞した読書感想文なんて
全部忘れてしまったんだけど、この感想文だけは良く覚えている。

勝手なルールを自分で作ったプレゼン。


だが時は経ち、高校に入ると俺も受験戦線に加わる事となる。
教科書通りに記憶を埋めて、相手に求められている答えを書く。
その訓練の繰り返しで俺はきっと何かを失っていったんだろうか。


大学に入って、授業でプレゼンで発表する機会が何回かあった。
そんな中でいつだったか「新製品を考えてプレゼンする」という
まさに想像力を問われる課題が出題された事があった。

俺も頑張って色々考えプレゼンに臨んだ。考える事は好きだった。
しかし、この時既に俺の脳味噌は硬直してしまっていたんだと思う。
他の人のプレゼンを見て俺は決定的な思考プロセスの違いを感じた。


それは俺が「現時点の技術で実現可能な提案」に留まっていた事だ。
しかしその場で実際に評価され喝采を浴びていた提案は違っていた。
「今は無理だけど、きっと未来には可能なレベル」での提案だった。

俺は最初それを見て「おいおい無茶言うなよそんなのまだ先だろ」と
思っていたのだが、やっぱりそういったプレゼンの方が夢があったし
周りの反応も良くて最終的には教授も学生も皆がそれを支持していた。

俺は「それがアリならもっと他の提案が出来たのに!」と思いつつも、
何故俺はそれが出来なかったのかを振り返って悔しくなっていた。

結局は「今の技術で出来そうなもの」という縛りは
俺が勝手に決めたルールであり、いつの間にかその枠組みの中でしか
想像してはいけないと、何故かそう思い込んでいたのである。

受験のせいなのか大人になったせいなのか、
いつの間にか俺は小さい世界でしか物事を見れない脳味噌になっていた。
これは反省すべき経験だった。勝手に見えない制限をかけていたのだ。

子供に学ぶ、想像力。


想像力のある人というのはきっといつだって掟破りなんだよな。
そういう意味では子供の想像力というのはとにかく果てしないんだと思う。

そして俺もいつの間にかそんな見えない掟を勝手に守る事に慣れた
つまらない人間に育っていたのではないかと心配してしまうのだ。

小さい頃に色々な刺激を受けあれだけ発揮されていた想像力は、
何回かの揺り戻しを経験しながらもやはり鈍ってきているんだよ。
こうやって振り返ってみると、いかに自分が知らない間に
殻に閉じこもってしまいがちなタイプなのかが良く分かる。

でも同級生のスケッチだったりプレゼンだったりと、
その都度その都度、誰かがその俺の殻を叩いてくれたお陰で
まだなんとかこうやって絵を書いたりブログしたり出来ているのだろう。


そう思うと、次にこの殻を叩いてくれるのは
きっと我が娘なんじゃないかと思った。

その飽くなき探求心と予想外の行動はまさに掟破り。
軽々と俺の想像力を超えてくる。
そんな娘に負けないように俺ももっと精進しなければならない。


子供は学びの宝庫である。
親が子供に学ぶとは良く言ったもんだね。

後は親に学ぶ姿勢がどこまであるか、それ次第なんだろうな。


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