脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

表現の自由と不自由と面白さと。


不快だからって怒らないで。


最近は世間を騒がす話題が色々とありすぎて、
メディアの皆様におかれましてはネタに尽きませんなぁ。

俺も普段は漫談と称して好き勝手書いてるんですけれど、
たまーに真面目に語ったりする事もあるわけで
またそんなタイミングが巡ってきた模様です。

aichitriennale.jp


上記トリエンナーレ内で展示された「表現の不自由展・その後」が
大炎上し数日で中止に追い込まれた事件。
今なお、色んな方面からの意見が飛び交っている状態だ。

※あいちトリエンナーレ自体は他にも色んな企画がありますよー。
サカナクションもライブしてるし。問題なのは展示の一部。


「表現」についても俺はこれまでも度々触れてきたんだけれど、
基本的に一貫しているのは

誰の気分も害さない表現などこの世に存在しない。

もうコレ。ほんコレ。コレに尽きる。
これでもうおしまい。今日は帰っていいです。

…ごめん、本当は最後まで見てってほしーの☆

というわけで個人的にこの事件について思う事を書いてみたい。

表現に不快はつきもの

俺も何年も音楽を中心にこのブログで色々言いまくってきた身。
つまり俺も「表現者の一人」だと思うわけです。
そしてこれまでも色んな反応を戴いております。どーもです。

紹介したCDがリンクを通してAmazon等で購入されてると嬉しいし、
その広告料を小遣いにして新しいCDを買うサイクルがまた楽しいし、
表現する事ってやっぱり人生の楽しみなんだと思っている。


だが当然、きっと俺の書いた記事で不快になった方もいるだろう。
「なんであの凄いアルバムの評価がこんなに低いんだよ」
「こんなクソ盤が高得点とかありえないだろ」って絶対言われてる

分かってる。ごめんね。気にしないで。
このブログでつけた点数なんて俺自身も半年後にはほぼ忘れているから
だから気軽な気持ちで読んで!頼むから怒らないで!

…などど言ったところで、
この俺の態度がまた気にくわないという方もいるだろう。
仕方ない。人間的に無理ならもうそれは合わないんですよねお互い。
街で会わなくて良かったって事にして、それぞれ暮らせれば良いのだ。


というわけで人は表現する際に「誰かを怒らせないかな」なんて
いちいち考えられないし、つーか考えたって無駄なわけよ。
繰り返すけど、全ての表現は誰かの機嫌を損ねる可能性を孕んでいる。

世の中には実に様々なバックグラウンドを持った人が沢山いる。
動物がじゃれ合う映像も、絶景と言われる景色ですら、
どこかの誰かには悲しみや怒りの対象として映るかもしれないわけよ。

そしてそれは逆に消費者の視点から考えた時、
自分が不快だからと言って他の皆も不快という事にはならないのだ。
ここって凄く大事なとこだかんね。忘れちゃ駄目だよ。

表現自体を止めてはいけない

さて、そんなわけで問題になった「表現の不自由展・その後」。
慰安婦像だったり昭和天皇の肖像を燃やしたりと
実際に見たわけじゃないけれど聞くだけでかなり過激な内容だ。

で、これが炎上した理由はシンプルに
「不快に思った人が大勢いたから」だろう。
当たり前っちゃ当たり前だ。当たり前。当たり前体操。

しかしだ、皆が不快なのはわかった。わかってる。
俺も分かる。ぶっちゃけ俺も観てないけどかなり不快に思う。


不快なんだけど、
でもやっぱり表現自体は存続させないといけないだろう。
ここは自分の気持ちとはしっかり分けて考えるべきだ。

不快だし全然好きになれない。
でも「その表現を肯定したい人たちがいる事実」は認めるべき。
表現が不快だからといってその表現を取り下げる事は出来ないはずだ。

つまり俺はね、これらの作品はぜんっぜん好きじゃないんだけど
展示自体が中止になったとき「あ~あ、コレやっちゃったな」と
思ったの。嫌いなものを規制できちゃうという前例がまた増えたの。

これはアカンですよ。無菌状態・促成栽培ばかりの世の中になる。
こんな事が横行したらそれこそまさに”表現の不自由”でしょう。

…あ、なるほど!分かった!この顛末まで含めての
「表現の不自由展」だったのか。なーるほど、劇場型の展示か!
…ってなるかい!ボケ!表現規制へまっしぐらじゃアホ!


だから俺個人の考え方としては、作品は不快だった。
でも展示は続けて欲しかった。そしてこの2つの感覚は両立する
そういう話です。表現の自由を謳う方々はここを混同しないでくれ。

多くの人が不快だったからこそ

さて、ではちょっとここで俺がなぜこの作品が不快なのか、
実物を見てない人間の意見にはなるがなぜそう思うのか、
そこを少し記しておこうかと思う。

えーっとね、単純にアート作品として面白くないから。そんだけ。

俺もね、一応少しは芸術をかじってきた人間だからね、
少なくとも平均以上の芸術的教養は持っていると自負しているのね。
で、そんな俺が思ったのは芸術品としての魅力に欠けるなーって事。

芸術が政治的な事を扱う点については何の異論もない。
つーか最近のロックフェスでも話題になったけど、
芸術と政治や社会って切り離せないのね。
過去の芸術作品だって宗教や政治に翻弄されてきたわけで。

ただ今回問題になった作品たちについては
インテリジェンスも感じられないしユーモアセンスも無いし、
展示の仕方にもこれといった仕掛けも無さそうだし、
実物を観てはいないんだけどつまらなさそうって思ったんよね。


んで、問題の展示の大枠である「トリエンナーレ」って言葉、
今回初めて知った人も多いかと思うけど
これは「3年毎の大規模な展示会・芸術祭」の事であり
世界各地で行わている芸術の祭典の総称なのである。

ちなみに2年毎に行われるのはビエンナーレといいます。
確か4年毎もあったはず。クアドリエンナーレって言い方かな。
いわばスポーツでいうワールドカップ的なイベントなんですよね。
国際色も豊かで色んな国が出店してその芸術力を見せつけあいます。

しかも確か愛知のトリエンナーレって、
日本国内のトリエンナーレでも非常に注目度が高くて
トリエンナーレという言葉を大きく広めたイベントだったと思う。


そんなビッグイベントであるあいちトリエンナーレで
正直言ってこんなアートと呼べるかも微妙な作品が展示されるのは
なんだかなぁーって感じです。個展とかでやればまだ良かったのに、
やっぱトリエンナーレに出す作品としてはイマイチ感が拭えない。

あと政治的主張についても俺はあまり受け入れられない内容だったし
総じて今回問題となった作品については面白くはなかった。
だから好きになれないし、むしろ不快だった。それが感想です。

時には覚悟も必要

でも俺はやさし~い人間だからね、
別に出展物を取り下げろなんて事は思わないわけよ。
繰り返しになるけど、万人に受ける表現がない以上は
世に送り出した表現ならば堂々としておくべきである。

批判を浴びるなら浴びるだけ浴びとけばいいし、
批判する方も好きなだけしよう。
歴史的にも芸術はそうやって育まれてきた経緯がある。


ただ脅迫は駄目だ。脅迫は表現でも批判でも何でもない。
だから今回の件でまずアカンのは展示会を脅迫し中止に追い込んだ
連中である。自分が気にくわないからって脅迫しちゃあいかん。

だがそれを受けて中止にした運営側も情けないというか。
被害届も出してたんだし警備を強化するなりなんなりの措置は
とれただろうに、あっさり中止にするとは表現の覚悟が無さ過ぎだ。

しかもアレだけセンシティブな展示だ。
これくらいの批判が来るのは津田さんのような方なら
予見できたんじゃなかろうか。そしてどんな批判が来ようとも
「いや、これは意義のある展示だ!」と喝破するくらいの
強固なメンタリティを持ち合わせていなかったのだろうか。


いずれにしても今回のコンセプトが”タブーに挑む作品群の展示”
だったのだとしたら、尚更展示を続ける選択をするべきだっただろう。
色々な理由で排除されてきた数々の作品にスポットを当てる目的が、
「結局だめだったじゃん」で終わってしまったのは勿体ない。

まぁ今後どこかで「表現の不自由展・その後のその後」みたいな内容で
またやればいいんじゃないの。そしてそこでまた批判を浴びればいい。
そういう議論がせめぎ合う中で広がる知見もあるんじゃなかろうか。

キュレーションって大事だね

じゃあ結局今回の件はどうすれば良かったのか。

そもそもここまで炎上したのは
展示を多くの人が不快に思ったからであって、
じゃあなんで不快に思われたのかっていうと面白くなかったからで、
じゃあどうやったら面白い展示になったのかという検証が必要である。


例えば慰安婦像だってあのまんまじゃなんの面白みも無いけど、
隣にキャバ嬢みたいな派手な服に着せ替えた同じ様な像を置いたら
ちょっとまた違った意味合いが出てきてバランスが取れたりとか。

昭和天皇の肖像写真が燃える動画だって、
一緒に別のプロパガンダ的なものを燃やすアレンジとかしてみたり
いずれにしても見せ方次第である程度回避は出来たんじゃないか。
こればっかりは後出しの意見で好き勝手な言い分になってしまうが。


あとクリエイターの力量もだしキュレーターの手腕も問われている。
キュレーターは美術などの展示の管理を行う人の事を指すんだけど、
日本ではキュレーターがあまり育ってないという話も聞く。

作品をいかに面白く(エンタメという意味だけではなく)見せるかは
実はキュレーターの展示の仕方にも大きく左右される。
キュレーターによって同じ作品でも良く見えたり悪く見えたりする。

トリエンナーレほどの舞台を担当するならば、
その辺りの感覚がある担当者がいてしかるべきなんだろうけれど、
まぁ今回の件については残念な結果になったという事だろうか。

 

結局

色々書いてきたけど、見せる側にも批判する側にも
まだまだ歩み寄るべきところがあるんだなと思った今回の件。

それとは別にそもそもこれは「芸術作品」と呼べるのか
という視点もあるだろう。慰安婦像なんかただのコピー品で
どこがアートなんだとか言われればそうかもしれない。

あとヘイトとアートの境目はどこなのか、
「表現の自由」を掲げれば何をやってもいいのか、
そういった部分も議論は尽きないし、そして多分答えは出ないだろう。
俺だって分からないもん。この辺りは未来への課題でもある。


ただ俺個人は「表現」はもっと広い範囲で捉えていいと思っている。

会社のメールだって表現の一つだし、そこに作家性はあると考える。
あとロックバンドのアルバムジャケットなんかは不快になるものが
いっぱいあるけど、それだって言ってしまえば表現の自由だ。


だからやぱり多くの人が表現をしていく事が怖くなるような
そんな社会であって欲しくはない。批判もあって勿論OK。
みんながみんなアーテイストのようになればきっと楽しい筈だ。

今回の件、中止になって溜飲を下げて終わりではなくて、
表現の自由とはなんなのかをもう少し皆で考える機会と捉えて
前に進めたら良かったのにな、とやや残念な出来事でした。