脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

評価を決めるのは大衆なのか選ばれた人達なのか。


たかが評価、されど評価。
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「他人の評価など気にしてはいけない」

自己啓発本とかで口酸っぱく言われすぎてて、
もううっすら酸味すら帯びてきた言葉だろう。
もともと特別なオンリーワン。みんながみんな英雄。

確かに俺もそう思う。世の中には様々な「評価」が存在するが、
当たり前の話だけど絶対的な評価というものは存在しないのだ。
矮小な評価軸でその人全体を捉えたかのようになる事は危険だし、
大体いちいち人の目を気にして行動していたらキリが無いし。

でもだからと言って「何もしなくていいや」というわけじゃないんだ。
勿論自分は自分だから他の何者でも無いんだけど、
その肝心の”何者か”になるために人は皆人生を歩んでいくわけである。

おおっ。我ながらいきなりいい感じの出だしだ。
大丈夫。ここがピークだから。後はいつものように落ちていくだけ。
Can't stop fallin' in Darkness.


俺は一応理系の人間で昔から数学がまぁまぁ得意だったし、
色々な統計やデータを見る事がとても好きだったりする。
そして職業柄、様々なデータを扱う事も少なくない。

確かに実際の数値をもとに評価された点数、ランキングは面白い。
しかし普段から数字とにらめっこばっかりしている俺だからこそ、
なかなか定量化できない評価って奴にも非常に興味があったりするのだ。

例えば音楽なんかは特に分かりやすい例だと思う。
「今年一番良かった音楽は何ですか?」と問えば
CD売上、一般的な人の感覚、そして評論雑誌や音楽メディア、
きっとどの結果も全て乖離したような結果になると思われる。

CD売上は一応定量化されたデータではあるものの、
フィジカル盤なんてグッズ要素が強くなってもう既に参考値である。
そして「音楽通」と呼ばれる方々と一般的なライトリスナーの評価も
かなり異なっていると思われる。

この「評価軸が異なると結果が違う」
部分って凄い重要な認識だと思うんだけど、
最近この辺ってどうなのかと思いましてね。
今日はそんな話。


M-1で評価をするのは「選ばれた人達」


先日のM-1グランプリとろサーモンが見事に優勝したんだけど
皆どういう感じで観ていたのだろうか。やっぱ和牛が面白かった?


ちなみに俺はミキが面白かったです。
あとスーパーマラドーナスーパーマラドーナは去年も面白かった。
でも嫁からしてみればスーパーマラドーナはなんか無理」だそうです。
ごめんなさい。俺は応援していますよ。スーパーマラドーナ


こういった時に良く話題になるのが「審査基準」なわけですね。

昔からM-1の審査員って、コメントで「ミスが無かった」とか
「時間配分が上手かった」とか「題材がありきたりではあった」とか、
結構漫才自体の構成や技術的な部分に言及する事が多かったんですよ。

でも我々芸能人ではない一般人の殆どってそんな事なんか気にせず
単純に「どんだけ笑ったか」ただそれだけでしょ。観てる部分って。
そういうもんだと思う。そして審査結果に不満が出たりするの。


俺はフィギュアスケートの演技を観てて、
正直言って審査の基準が全く分からん事がしょっちゅうある。
自分が良いと思った人が意外と点数伸びてなかったり。

でも多分それは俺がフィギュアスケートの事を良く知らないからだ。
今度『ユーリ!!! on ICE』でもちゃんと観ようかな。
そしたら多少は理解できるようになるんかな。



そんなわけで、定量化しにくい評価ってのは結局のところ
素人ではなくその業界の事を良く知る人物の評価を仰ぐ事が多い。
この風潮を良しとするかどうかはひとまず置いておくとしても、
この「選ばれし人のみで評価する」事はとりあえず合理的ではあるのだ。


学校の日本史の近現代の勉強で「昔は選挙に参加できたのは、
一定の税金を納めた人だけだったんだよ」「えー!?」
みたいな話が盛り上がったりした事はないだろうか。

確かに今考えれば「ひどい」「かわいそう」と思える話かもしれないが、
それは情報網がこれだけ広がった”今”だからそう思えるのであって、
ぶっちゃけ当時の日本は地方の農村に住んでた人間にとっては
政治がどうのこうのなんてのは殆ど実感が無かったらしい。
そういう事とは無縁の位置で生活を営んでいたのだ。

つまり皆に「判断できるだけの材料」がまだ行き渡っていない状況で、
全員に選挙権を与えたところでそれを行使するための知識が足りない。
当時がまだそういう社会情勢だった事を考えると、
とりあえず一部の代表者に限定的に選挙権を与える事は
ある意味で合理的ではあったのだ。


「何事も前提となる知識が無ければ評価は難しい」

この事は多分皆が普遍的な感覚だとは分かっちゃいるんだろうけど、
ただ音楽やお笑いなどを含めた芸術方面に関しては
「自分が良さが理解できなかったんだから評価されるのはおかしい!」
みたいなやや強引な解釈をされてしまいがちだと思うの。
その分野に詳しくなくてもそれなりに楽しめると皆が思っているから。

ネットが加速させる大衆の評論家化。


さて、ここでやっぱり気になるのはインターネット文化の台頭だ。

皆が好き勝手言いたい放題言えるようになった事は、
勿論良い面もあるし、むしろ俺は良い面が多いと思う。
つーか俺自身がここで好き放題言わせてもらてるし。あざーっす。

でもやっぱりネットは時に行き過ぎた民主主義を発動させる事がある。
「ネットがあるんだからみんなの意見を広く聴くべきだ」というのは
一見非常にまともだが時代を停滞させる危険性を孕んでいるとも思う。


M-1グランプリのような審査員によるコンテスト形式の競技が、
仮に全視聴者による投票という民主主義的な形式を取ったらどうなるか。

既に最近の技術を利用して一般の評価を取り入れているものもある。
しかしやっぱり俺はこんなネットが当たり前の時代だからこそ、
審査員形式を貫いているM-1のような存在も必要だと思っている。

確かにM-1が始まった頃は、
今のテレビのような視聴者とリアルタイムで
双方向性のあるやり取りが出来なかった。
でも、じゃあそれができるようになったんだからと言って
審査員の必要性が無くなったわけではないんだよね。

そこはやはり音楽での「評論家」と「ライトリスナー」の
評価が違うように、業界に詳しい人達ならではの評価があって欲しい。
きっと「選ばれた人たち」ならではの視点がそこにあるからだ。

ただ全国民の多数決で「面白い」と思ったものが選ばれるばかりだと、
どうしても新しいものが評価されるという下地が生まれにくいと思う。
稀に情報通にも一般層にもどちらにも強烈な印象を与える天才もいるが、
でもやっぱり専門家の方が感度が高いので埋もれている才能は発掘出来る。


だから専門家や評論家等のポジションにいる人の重要な役割って
「新しい・面白い・魅力的なもの」の良さを解釈して我々に説明する
そういう橋渡しをする事なんだと俺は思っている。
それが高慢になったり内輪になったりすると人々は去っていくんだけど…。

だから「どうせ普通の人に説明しても分からないからいいや」と
説明する事を怠っていると、徐々に一般人との感覚が乖離してしまう。
これは受け取る側じゃなく発信する側の責任が大きいと思っている。
一般ピーポーも忙しいのだ。まずは詳しい人達の評判を聞くしかないのだ。


そして一般的な評価も勿論あって欲しい。
色々な評価軸がある事が大事なのだ。話は最初に戻るけど結局コレ。
定量化できないものこそ、色々なフィールドで多面的な評価をされる。
これですよね。人間の評価だってそうだよね。
親戚や会社や地域の中の評価が全てではないでしょ。

ネットがあるからってなんでもかんでも大衆に決めさせると、
スピード感が無くなっていく。でも専門家偏重だと乖離し始める。
何事もバランスが大事とは良く言ったものだね。


おわりに。


「人の評価は気にするな」は確かにそうなんだろうけど、
なぜそういう評価になったのかを知る事には意味があると思う。

”一億総評論家時代”なんて事を誰かが言ってた気がするが、
「俺らの評価が正しいんだ!アイツらは何も分かっちゃいない!」
のスタンスばかりだと分断が進んでしまい互いの理解が深まらない。

だから皆が「なぜそういう評価になったのか」を説明していく、
それも分かりやすく体系的に説明する事が重要だ。
折角ネットで自由に意見が発信できる時代なんだ。
色々な視点の評価をその理由も含めて解説していく姿勢が大切だと思う。


大衆も専門家も情報通も評論家も、
「なぜそうなるのか」をより広く理解できるような状況が望ましいよね。
これってホントは昔なら凄い難しい事だったと思うけど、
情報が広がりを見せる今の社会なら出来ない事もないんじゃないかな。

そういう自分もこうやって聴いた音楽の評価なんぞしているわけだけど、
まだまだ表現力不足でうまく意図が伝えられないと度々感じる…。

今後も精進を重ねてもっとうまく伝えられるようになりたい。