脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

好きなのは”作品”?それとも”アーティスト”?

「好き」な部分を説明できるか。

 

”ファン”ってのは基本的にアーティストに対する言葉だ。
作品のファンってのもいるのだろうが、
一般的にはアーティストに対する使い方が普通だ。

でも基本的に俺らが好きなのは彼らのアウトプットなんですよ。
小説も漫画も音楽も彼らのアウトプットが好きなのであって、
作者が好きと言うのも結局その作者が描く世界が好きという事になる。

もちろん、その作者がどういう人物とかの情報を知った上で
さらに好きになる(逆に嫌いになる)というタイプの人もいるだろうが。


さて、昨年の佐村河内氏のゴーストライター騒動で、
ソチ五輪のフィギュアで高橋大輔選手が競技で使用する曲が
佐村河内氏の曲だったため様々な議論が紛糾した事があった。
当然SP直前で曲の変更は無かったようだが…

では実際にゴーストライターが書いた曲だと知ったところで、
みんなの曲に対する印象がどれくらい変わったのか?
ここがポイントだ。みんなその曲のどの部分が良いと思っていたのか。
自分が好きな要素を自分でしっかりと認識できているのか。


曲が好きという理由はそんな単純化出来ないはずだ。

歌詞、メロディ、リズム、コード進行に限らず、
楽器や声やテクニック、はたまた歌にまつわるエピソードや時代背景まで。
様々な要素が絡んだ上で「その曲が好き」となるのだ。
その中の一つに「作者も含めたバックグラウンド」も入る。

だから、佐村河内氏が書いたと言われていた曲を
「これゴーストライターが書いた曲なんでしょう?」という理由で
それを嫌いになるのはよほど作者が好きだった人しか持ち得ない感情だ。

そうでもないのに嫌いになる人は多分どちらにしろ好きになっていない。
それかこの曲を好きだった人を馬鹿にしたいだけの野次馬精神で、
勝手に嫌いになっているかのどちらかだ。

今回ショッキングだった人は作品の背景まで含めて好きだった人だ。
でも本人が本当に書いたかどうかなんて普通第三者は知る由もない。
それに対して「ゴーストライターが書いた曲で感動しちゃうんだってww」
みたいに煽る人はあまりに理解がない。お前は事前に分かったのかよ。


俺自身は作者が好きという理由ってのは麻雀のドラみたいだと思っている。
まず作品が好きな上で付加価値としてエピソードとかがあるのだ。

勿論、強力な文脈・エピソードがあればその限りではないし、
個人的な思い出などが乗っかると作品の価値がグンと上がるわけだが。
でも基本的に作者が好きならば作品も全て好きなんて事はないと思う。

少なくとも俺はそうだ。
だから仮に好きな作品に作者の背景だけがなくなったとしても
俺の中の付加価値が無くなるだけで作品自体の価値は消えないだろう。

だから好きな曲が仮に佐村河内氏の例のように
思ってた作者と違う人だったとしても、
俺は多分作品を嫌いにはならないと思っている。

でも逆に言うと、俺はまだ
「この作者なら全て大好き!フィーリングばっちし!何やっててもいい!」
という運命的アーティストに出遭えてないというロマンチックな見方もできるが。


まあ何はともあれだ、
『作品』というのは生み出された時点でそれ自身が価値を持ち、
たとえ作者が誰であろうと作品そのものに罪はない。
テクスト論の考え方に近い。作者を憎んでも作品を憎まずだ。


我々が好きなのは『作品』なのか『アーティスト』なのか。
ゴーストライター騒ぎもこういった気持ちを見直すちょっとした機会になった。

4062139359 交響曲第一番
佐村河内 守
講談社 2007-11-01

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