脱R論

一般人の一般人による一般人のためのゆるくテキトーな音楽ブログ。ロックから脱却出来るその日まで音楽ネタを中心に書き綴ります。

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テクスト論は衰退しました。


現実が襲ってくる。

人類は衰退しました 未確認生物スペシャル (ガガガ文庫)
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先日、ロックとインターネットについてだらだらと書いたんだけど
大した結論も書かずに酔っぱらいが書きなぐったような話になった。

drr.hateblo.jp


結局ロックの役割を破壊したインターネット自身も
最近様子が変わったなとかそんな話を書いたんだけど、
じゃあそのネットの変わった部分って何なんだろうかという疑問がある。

そんな事を今回はもう少し考えてみようという酔い覚ましの記事だ。

「テクスト論」


今のネットの世界と昔のネットの世界で違うなと感じるのは、
昔のネットにはなんかこう表現しがたい一体感があったなーという事。
そんな謎の一体感を生む事に寄与していた、皆を束ねていた共通認識、
それこそが「テクスト論」だったんじゃないかと思うわけですね。

そう、『テクスト論』
最近ではあまり耳にしなくなった言葉だと思うけど、
コトバンクによるとこんな事が解説してある。

文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のことをいう。文章はいったん書かれれば、作者自身との連関を断たれた自律的なもの(テクスト)となり、多様な読まれ方を許すようになる。


こんな堅い文章読むとセンター試験の現代文を思い出して嫌になるけど、
このテクスト論はフランスの哲学者ロラン・バルトが50年程前に
「作品は作者の意図ではなく受け取った者の解釈で判断しよう」
作者という存在から作品を解放した「テクスト」の概念を主張し、
それによって「作者の死」を提唱したものである。

誰がどういう背景でどういう意図で発したものか、
そういった作品を取り巻く環境や作者の支配から脱却して
純粋に受け取り側の想像力に委ねようという話だ。

「いじめはいじめられる側がいじめと思えばいじめだ」みたいな。
ちょっと違うか。でも、ロラン・バルト自身はこのテクスト論を 
結構ポジティブに考えていたと思う。読者の想像力を尊重しろ!的な。

ネットで加速したテクスト論。


そして黎明期のインターネットは、
まさにテクスト論こそが正義といったそんな「匂い」があった。
これは当時のネットは「匿名性」が強かったという事もあるだろう。

ネットは現実とは隔離された別のフィールド、
そんな意識が強かった当時のネットの世界においては
ただただ発信されたアウトプットのみでシンプルに評価され、
それを誰がどういった経緯で言ったのか、作ったのかといった
プロセスはあまり重要視されなかった、というか見えにくかった。

しかしそれ故に、どこの誰が発信したものかも分からないモノでも
「その通りだ」「よくやった」みたいな支持を集める事が出来て、
誰もが対等・フラットな状態でアウトプットだけで注目を浴びていた。

言った人がどんな人物なのかどうかは関係ない。
受け取った人達がどう思うか、まさにテクストこそが意味を持つ世界。

そしてそれは反権威主義的な雰囲気も伴っていたため、
やけにインターネット上では連帯感があったんだと思う。
のまネコ騒動なんかはまさに象徴的な出来事だったし。

そういった世間のメジャーなものに対抗するような形で
テクスト論はインターネットと共に徐々にその幅を利かせていた。

「誰が言ったとしても良い事は良い。」
「誰が作ったとしても良い物は良い。」

この考え方に基づいて、ネット上は良い物だらけの世界になる。
そんな漠然とした期待をきっとみんなが無意識的に感じていた。

テクスト論で作品に触れるという事。


さて、俺自身は基本的にはこのテクスト論の支持者でもある。
センター試験の国語の小説の作者の意図とか知らんがな、
俺がそう思ったんだから俺の意思を尊重しろとか思うもん。

しかしながらこの受け手側に依存するテクスト論は、
行き過ぎると少々厄介な存在でもあるとも思っている。

それは対象のアウトプットが生み出されるまでの
文脈・物語といった要素が抜け落ちてしまう可能性である。
そもそもテクスト論がここを重視していないので当然っちゃ当然だが。


だがこの視点が取り除かれるとどうなるのか。

例えば音楽でいうとビートルズなんかは
テクスト論的に語れば「今はもう古くて流行らない音楽」だ。
勿論受け手の想像力にも依るけれど、音だけで判断すれば古い音だ。

たまに「名曲というものは時代を超えて愛される」という方もいるが、
俺はそれは半分不正解だと思っていて、
「当時は革新的だったと言う意味で名曲だけど今聴けばそうでもない」
という曲も確かに存在する。

単純に曲だけ聴いた場合には退屈だと感じる音楽は沢山あるが、
それを発表した人物の物語や時代が背後にあるという事実。
しかし受け手が主体となるテクスト論的視点ではそこはどうでも良い。

ゲームだって同じだ。ファミコンゲームボーイの頃に比べれば
今のゲームの方が圧倒的にクオリティも自由度も高いに決まってる。
アウトプットだけ見れば現代の方が優れているのは明らかなんだ。

美術にも当てはまるよね。現代美術なんか特にそうで、
アウトプットだけ見れば何が良いのか分からないものが多い。

俺はルーチョ・フォンタナの『空間概念』が好きなんだけど、
これはキャンバスにカッターで切れ込みを入れただけの作品だ。



この作品の面白さは、それまで絵の素材に過ぎなかったキャンバスを
実はそれ自体も作品に出来るのだという気付きを与えた事である。

しかし極端にテクスト論的に見れば「ただ切れ込み入れただけww」
「俺でも出来るやんww」という残念な評価で終わる代物なのだ。
そこに文脈や物語は存在しない。切れ込みが入った布があるだけで。

このようにバックグラウンドが無い、
極端なアウトプットばかりの評価では
その作品の面白さにはなかなか辿りつけない事がある。


だがテクスト論もまた重要な視点を提供する。

物事を単純化して捉えるのは別に悪いことではない。
複雑化した事象を「でも結局は」みたいな形に帰結させたり、
そもそもは」という原点に立ち返らせたりする力があるからだ。

それに先程のビートルズを「古い」と断ずる例のように、
既存の価値観に縛られない反権威的な側面を持ち合わせている。
反知性、反インテリ的な要素もあるのかもしれない。

「背景とか知らん。良いと思うか思わないか、それだけだ。」
この考え方は教養が無さそうに見えたとしても、分かりやすくて強力だ。

だがテクスト論も本質は受け手にも思考を求めているのであって、
そう考えると受け手側にもある程度の知識が必要とも考えられる。
結局は土台となる知識が無ければ当然ながら良さなんて分からない。

ネットに新たな権威が登場。


というわけでインターネットとテクスト論は
匿名性や反権威主義といったような要素で親和性が高く、
まさに2000年代のインターネットはテクスト論が跋扈していたと思う。

だが最近はあの頃の雰囲気は徐々に薄れてきている。
その要因はなんだろう。そう思ったときに浮かんだのが
インターネット上に「新たな権威」が次々と生まれてきた事だった。
いや、生まれてきただけではなく参入してきた事も大きいかな。

時代が進みネットメディアでの人気者が登場してきただけでなく、
テレビ等の他のメディアでの有名人もネットで色んな事を発信し始めた。
ネットと現実、他のメディアのリンクが進み
結局は現実世界と同じ「力ある個人が目立つ」ようになっちゃった。


これはSNS等の個人メディアを
誰もが簡単に持てるようになった事がデカいと思うんよね。

昔は個人サイトなんかはごくごく一部の人間しか持っておらず、
普通の人は匿名掲示板等で触れ合う事がメインだったわけで。
つまりそこでは相手が誰かを互いに意識しない表現を行う事が出来た。

だがSNSの発達で個人がそれぞれネット上で自分のエリアを持ち始めた。
何かに言及する時はシェアボタンで自身のFacebookTwitterで発信する。
するとその発信の背景には個人の人物像がついてまわり一貫性が生じる。

これによって「誰の発信なのか分からないけど面白い」ではなく
誰の発信なのか分かった上で面白い」という感覚が浸透し始めたのだ。

どんな発信も個人に紐づきやすくなり一種の物語性を帯び始めた。
となれば、あるアウトプットが支持を集めた場合にも
それを発信した人がどんな人なのかを容易に辿る事が出来るし、
そしてそれによって特定の個人が徐々に人気となる現象も増えたのだ。

テクスト論の衰退。


そんなわけでアウトプットこそが全てのテクスト論は
この一貫性が生じ始めた事により自然と勢いを失っていったわけだが、
さらにここで言及したい事は匿名性が一貫性を攻撃していた事である。

全ての発信が個人に集約されるようになった事で、
ある人の何かの発言に対して執拗にその人の過去の発信を調べあげては
「以前あなたはこんな事言ってたんですね」と別の発言を問題視したり
「でもあなた過去にこんな事言ってますよね」と矛盾点を探したり、
テクスト論とは程遠い批判も行われるようになった。

さらにそれを匿名コメント等でやっちゃうもんだからズルいよね。
自分は一貫性を担保しない立場から相手の一貫性を否定する。
これは例えそれがどんなに的確な指摘だったとしてもやはり印象が悪い。

「匿名だから言える事がある」という意見もあるが、
正しいと思っている事であれば匿名じゃなくたって堂々と言える。
自分に自信があるのであれば尚更じゃないだろうか。

そんな匿名に対する印象の悪化もあって、
多くの人が発信元の人物がどういう人なのかを意識するようになったし、
逆にどんな人物か分からない人のコメント等は気にしないようになった。

ネットにも現実が押し寄せてきた。


こうして皆がアウトプットだけでなく対象の背景までを求めるうちに、
ネット上からはテクスト論は衰退し個人の権威が誕生していった。

結局、ネットも現実の延長線上になったんだ。
影響力のある人が発言力を持つ世界。
権威とはどこにだって生まれるのがこの世の必然なのかもしれない。

けど、俺は別にこの状況を嘆いているわけではないんよね。
デマや信憑性の薄い噂話程度の話題が飛び交う時代だし、
前後関係や意図がハッキリと分かる方が有難いし。

玉石混交の話題に溢れた今のインターネットは
対象が良い物かどうかが見えにくくなった世界だ。
するとまずテクスト論そのものの適用が難しいという話になる。
情報の氾濫により自然と人はその信頼性を探るようになっていったのだ。


それに個人メディアが発達したのは、
皆が恥ずかしがらずに発言できるようになった事の裏返しとも言える。

以前は匿名掲示板くらいでしか語る事が出来なかった
ニッチなトピックを抱えていた人たちも
個人メディアに進出していける時代になったのだと考えれば、
それはむしろ喜ばしい事なんじゃないかと思う。

気分的には寂しい部分も少しはあるけれど、
本当に良い物であればきっと脚光を浴びるだろうし、
ネットが無かった時代よりもそのチャンスはずっと広がっているのだ。

でもインターネットは終わらない。


インターネットの盛り上がりと共に静かに広がっていたテクスト論。
しかし時代は変わりネットと現実が地続きになり、
テクスト論は徐々に衰退したのだろうけど、
別にそれはインターネットの衰退を意味するわけではなかった。

面白い物が生まれる土壌は常に耕されている。
種を蒔く人とそうでない人がいる、おそらくその違いだけなのだろう。

それに匿名文化が無くなったわけでもないし、
テクスト論が駆逐されたわけでもない。
実は今のバランスくらいがちょうどいいのかもしれないね。

アウトプットと、そこに流れる物語。
どちらもあってこそ浮かび上がってくる魅力がある。
あとはそれが伝わる事を願おう。きっと分かる人には分かるよ。


ポップアートの巨匠、アンディー・ウォーホルの名言

In the future everyone will be world-famous for 15 minutes.
誰もが15分間なら有名人になれる。いずれそんな時代が来るだろう。

は50年も前の発言だが、
まさに今の時代を言い当てている気がする。

さすがウォーホル。
俺もそんな15分をいつか経験してみたいな。

欲を言えば2時間くらい。


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